
昨日、とある研修で、ある当事者の方にお話していただく場面をプロデュースさせていただきました。 精神科医療を利用しながら、ホームヘルプの力もかりて今の生活をきりもりしているAさん。でも、その日々のかかわりの中で疑問に思うことがあっても、「私は障害者だから注文つけてはいけないのではないか」、「ヘルパーさんに来てもらっている身だから、もしここで何か言って断られたら生活全てが破綻してしまうのではないだろうか」、「私は全てを代わりにしてください、と頼んでいるわけではなくできるところはさせてくださいと言っているだけなのに・・」、「まず、私の気持ちを聞いてほしい」・・、戸惑いも確かめたいことも怒りもずっと秘めてきたAさん。でも「それってごく当たり前の感情で、特別なことやおかしなことを要求しているのでもありませんよ」、「言うべきことですよ」、とメッセージを伝えることと並行して、そのときは限られた場面での話だったので、「研修の場面でナマの声として聞いてもらって、改めて、自分たちのおかれている立場性とか、追い詰められたり自身でも追い詰めてしまっている現実やその感情、権利擁護とか対等性と言われる言葉に対しての今の思い・・そんな気持ちを伝えてみましょうよ、伝えてみませんか?」と提案しての昨日でした。数日間でAさんは一生懸命「伝えたいこと」をまとめてくれました。書いたり消したり・・レポート用紙からはAさんの意気込みと並行して、躊躇や不安も垣間見えました。 いざ本番。初回でもあるため、間仕切りの向こうでのデビューでした。淡々と語るAさん。研修生の顔色が変わります、涙する方、対応に対する怒りが顔ににじむ方・・その反応は様々。とにもかくにも真剣にまっすぐに聞いていただきました。「聞かせてもらって嬉しかった、ありがとうございました」、「改めて、自分たちの立場性も含めて考えさせられました」「私たちも一言が足らなくて辛いことを強いていることがあるかもしれないと気づきました」・・その言葉に涙するAさん。でもその涙は悔し涙でも後悔の涙でもなく柔らかな嬉し涙でした。 「聴いてもらって本当に嬉しかった。」と微笑むAさん。「今日は愚痴ばっかり言ってしまった。」「無駄な言葉が多かった。」と悔やむAさん、でもその顔は一時間前とは違って笑顔に満ち溢れていました。 間仕切りのない場面で語るAさんの姿を見る日もそう遠いことではないでしょう。
PR